愛するということ Part.2
「愛するということ Part.1」の続きです
まずは言葉の定義から。
「愛」は「実存の問題にたいする、熟慮の末の答えとしての愛」と、「共棲的結合とでも呼びうるような未成熟な形の愛」に大別されます。
後者から先に説明すると、共棲的結合と呼べるような未成熟な形は愛とはいいません。
生物学的に言うと、母親と胎児の関係にあたります。
また心理的に言うと、ふたりの体は独立しているけれど心理的にはどちらにも似たような愛着がある者の関係のことをいいます。この例としてマゾヒスティック・サディスティックな人について挙げられていました。両者の関係には肉体的・性的欲望を含むことがあります。
共棲的結合の受動的な形をマゾヒズムといい、マゾヒスティックな人は耐えがたい孤立感・孤独感から逃れるために自分に指図や命令、保護してくれる人物の一部になりきろうとします。一方能動的な形をサディズムといい、サディスティックな人は孤独感や閉塞感から逃れるために他人を自分の一部にしてしまおうとします。マゾヒスティックな人は人格が統一されておらず、まだ完全には生まれていないーこれは母親と胎児の関係において当てはめると、母親がサディスティックな人、胎児がマゾヒスティックな人にあたるのでしょうか。マゾヒスティックな人とサディスティックな人は表面的には対極の存在のように見えますが、深い感情面においては両者は相違点の方が少なく、そしてそれは完全性に到達しない融合です。
一方の成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合をいいます。愛は人間のなかにある能動的な力であり、人の間にある壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力です。パワフルですね。力強さを感じます。
愛は活動であるといった時、「活動」の言葉の意味が問題になってきます。
勉強をする、仕事をする、スポーツをする、一見能動的な活動に見えますが、これらは全て自分の外側にある目標を達成するためにエネルギーを注いでいます。不安から行動している人も、野心的に行動している人も同じように自分の意志ではなく、駆り立てられて活動していることから「受動的」な活動といえます。
一方、心を集中させる瞑想のような精神活動は外界の変化に関係なく自分に本来備わった力を用いていることから「能動的」な活動といえます。私は瞑想が苦手なのですが、フロムは「内面的な自由と自立がなければ実現できない、魂の活動である」といっています。
「愛」はどちらにあてはまるかというと、もちろん「能動的」な活動です。活動の定義を明らかにしたことで、愛や恋は「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである理由がさらに明確になったと思います。このみずから踏みこむとは、愛はもらうのではなく与えることであるともいえます。
愛を「与える」と考えた時、何かを諦める必要がある、自己犠牲を伴うもの、といったイメージが挙げられることがあります。また犠牲を甘んじて受け入れ与えることを美徳と考える場合もあるでしょう。
非生産的な性格の人は与えることは貧しくなることと考え、見返りがなければ与えることを嫌がります。しかし、生産的な性格の人にとっては与えることがネガティブなイメージではなく、自分の生命力を表現した豊かさを感じるものと考えます。
物質の世界において豊かな人とは、ひたすら貯めこみ失うことを恐れている人ではなく(それはむしろ貧しい人といえる)、人に与えることができる人です。
昨今物価が上昇し、以前にも増して生活が大変になってきたと感じます。そして、人に余裕が無くなってきている、という言葉も耳にします。フロムは、貧困は人を卑屈にするけれどそれは貧困生活がつらいからだけでなく、与える喜びが奪われるからだ、といいます。これは、人は本能的に「与えたい」という欲求を持っていることの裏返しだと思います。
物質以外で人は人に何を与えるのかというと、自分のなかに息づいているもの全て、例えば自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなどを与えます。自分の生命を与えることで他人を豊かにし、自身を活気づけることで他人を活気づける。そこにはもらうために与えようという下心はなく、与えることそのものが喜びとなります。こうした経験はみんなしたことがあると思います。
真の意味で与えることができれば、与えた対象の中で何かが萌芽しそれがまた自分にも返ってきます。正の循環ですね。
上記の与えるという意味で人を愛せるかどうかは、その人の人格がどのくらい発達しているかによって変わってきます。愛するためには人格が生産的な段階に達していなければならず、この段階に達している人は依存心やナルシシズム的全能感、他人を利用しようとする欲求、なんでも貯めこもうとする欲求を克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のために自分の力に頼ろうとする勇気を獲得しています。これらの性質に欠ける人は、自分を与えるのが怖く、愛する勇気もありません。
愛の能動的な性質を構成する要素は、与えることの他に「配慮」、「責任」、「尊重」、「知」という要素があります。
「配慮」
子どもに対する母の愛が例として挙げられます。子どもにご飯を食べさせたり、お風呂に入れたり、オムツを替えたり。愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることをいいます。
「責任」
責任というと義務的な物事を連想するかもしれませんが、本当の意味での責任とは完全に自発的な行為のことをいいます。責任があるということは、他者から何か求められたときその要求に応じられる、応じる用意があるという意味です。そして愛する人は、自分自身と同じように仲間にも責任を感じます。母子関係でいうと生理的要求への配慮を、大人同士の場合は相手の精神的な求めに応じることをいいます。
「尊重」
責任は尊重があってこそ成り立つもので、尊重がなければそれは支配や所有へと変貌します。尊重とは、人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことです。愛する人が、自分のためではなくその人自身のために、その人なりのやり方で成長していって欲しいと願う。そこに相手を利用しようとする意味は含まれていません。
自分が自立していなければ人を尊重することはできません。松葉杖の助けを借りずに自分の足で歩け、誰か他人を支配したり利用したりせずにすむようでなければ人を尊重することはできません。自由であって初めて人を尊重できます。
「知」
人を尊重するには、その人のことを知る必要があります。そうでなければ、配慮も責任も的外れに終わってしまうからです。そしてその知も、気遣いが動機でなければむなしいものになります。自分自身に対する関心を越え、相手の立場にたってその人を見ることができたときに初めてその人を知ることができるからです。相手は何が好き、とかそういう表面的なことではなくて、より相手の本質、核心にせまることを知というのですね。
これらの要素はすべて層状的層構造になっています。
そして、他人を知ることと愛の問題との間には他にもっと根本的な欲求が存在しています。孤独の牢獄を抜け出して他人と融合したいという基本的欲求は、「人間の秘密」を知りたいという欲求と密接に関わっています。自分の知らない自分を知ることがあるように、相手に対しても同様に知れば知るほど完全な理解からは遠ざかっていきます。それは、私たちは物ではないから。何年も一緒にいたのに知らなかった意外な一面を発見することってありますよね。だから人っておもしろいし、飽きることがない。終わりのない追求ですね。私たちは、そういった人間の一番奥にある芯に到達したいという欲求を捨てることができません。
秘密を知るための方法には二つあります。
一つは、他人を完全に力で抑え込む方法です。力で相手を支配し相手を自身の意のままに操作してしまう方法で、その極端な例がサディズムです。サディズムは人を苦しめたいという欲望であり、実際にそうする能力です。拷問による自白も、相手や自身の秘密を知りたいという動機がその根底にあります。
そしてもう一つは、愛です。これはただ考えて「知る」わけではなく、結合の体験、すなわち愛の行為によって知ることをいいます。この記事の冒頭で言及したように、サディズムにおいては愛について何も知ることはできません。自身と相手を完全に知ることのできる唯一の方法が愛の行為なのだそうです。これが答えなのかと正直驚きましたが、理解できなくはないと思いました。
本書は200ページ近くあるのですが、ここまででまだ50数ページです。先は長い。
でもこの活動をしている間は、孤独な自分という存在を忘れていられます。
次回は愛の行為についての説明から始まります。
「愛するということ」を読んだ後に、「自由からの逃走」にも私が求めている答えがあると感じたので注文し読み始めました。「愛するということ」よりも難解に感じますが、少しずつ読み進めていきたいと思います。