「愛するということ」 Part.2

愛するということ Part.2

「愛するということ Part.1」の続きです

 

まずは言葉の定義から。

「愛」は「実存の問題にたいする、熟慮の末の答えとしての愛」と、「共棲的結合とでも呼びうるような未成熟な形の愛」に大別されます。

 

後者から先に説明すると、共棲的結合と呼べるような未成熟な形は愛とはいいません。

生物学的に言うと、母親と胎児の関係にあたります。

また心理的に言うと、ふたりの体は独立しているけれど心理的にはどちらにも似たような愛着がある者の関係のことをいいます。この例としてマゾヒスティック・サディスティックな人について挙げられていました。両者の関係には肉体的・性的欲望を含むことがあります。

共棲的結合の受動的な形をマゾヒズムといい、マゾヒスティックな人は耐えがたい孤立感・孤独感から逃れるために自分に指図や命令、保護してくれる人物の一部になりきろうとします。一方能動的な形をサディズムといい、サディスティックな人は孤独感や閉塞感から逃れるために他人を自分の一部にしてしまおうとします。マゾヒスティックな人は人格が統一されておらず、まだ完全には生まれていないーこれは母親と胎児の関係において当てはめると、母親がサディスティックな人、胎児がマゾヒスティックな人にあたるのでしょうか。マゾヒスティックな人とサディスティックな人は表面的には対極の存在のように見えますが、深い感情面においては両者は相違点の方が少なく、そしてそれは完全性に到達しない融合です。

 

一方の成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合をいいます。愛は人間のなかにある能動的な力であり、人の間にある壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力です。パワフルですね。力強さを感じます。

 

愛は活動であるといった時、「活動」の言葉の意味が問題になってきます。

勉強をする、仕事をする、スポーツをする、一見能動的な活動に見えますが、これらは全て自分の外側にある目標を達成するためにエネルギーを注いでいます。不安から行動している人も、野心的に行動している人も同じように自分の意志ではなく、駆り立てられて活動していることから「受動的」な活動といえます。

一方、心を集中させる瞑想のような精神活動は外界の変化に関係なく自分に本来備わった力を用いていることから「能動的」な活動といえます。私は瞑想が苦手なのですが、フロムは「内面的な自由と自立がなければ実現できない、魂の活動である」といっています。

「愛」はどちらにあてはまるかというと、もちろん「能動的」な活動です。活動の定義を明らかにしたことで、愛や恋は「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである理由がさらに明確になったと思います。このみずから踏みこむとは、愛はもらうのではなく与えることであるともいえます。

 

愛を「与える」と考えた時、何かを諦める必要がある、自己犠牲を伴うもの、といったイメージが挙げられることがあります。また犠牲を甘んじて受け入れ与えることを美徳と考える場合もあるでしょう。

非生産的な性格の人は与えることは貧しくなることと考え、見返りがなければ与えることを嫌がります。しかし、生産的な性格の人にとっては与えることがネガティブなイメージではなく、自分の生命力を表現した豊かさを感じるものと考えます。

物質の世界において豊かな人とは、ひたすら貯めこみ失うことを恐れている人ではなく(それはむしろ貧しい人といえる)、人に与えることができる人です。

 

昨今物価が上昇し、以前にも増して生活が大変になってきたと感じます。そして、人に余裕が無くなってきている、という言葉も耳にします。フロムは、貧困は人を卑屈にするけれどそれは貧困生活がつらいからだけでなく、与える喜びが奪われるからだ、といいます。これは、人は本能的に「与えたい」という欲求を持っていることの裏返しだと思います。

 

物質以外で人は人に何を与えるのかというと、自分のなかに息づいているもの全て、例えば自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなどを与えます。自分の生命を与えることで他人を豊かにし、自身を活気づけることで他人を活気づける。そこにはもらうために与えようという下心はなく、与えることそのものが喜びとなります。こうした経験はみんなしたことがあると思います。

真の意味で与えることができれば、与えた対象の中で何かが萌芽しそれがまた自分にも返ってきます。正の循環ですね。

上記の与えるという意味で人を愛せるかどうかは、その人の人格がどのくらい発達しているかによって変わってきます。愛するためには人格が生産的な段階に達していなければならず、この段階に達している人は依存心やナルシシズム的全能感、他人を利用しようとする欲求、なんでも貯めこもうとする欲求を克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のために自分の力に頼ろうとする勇気を獲得しています。これらの性質に欠ける人は、自分を与えるのが怖く、愛する勇気もありません。

 

愛の能動的な性質を構成する要素は、与えることの他に「配慮」、「責任」、「尊重」、「知」という要素があります。

 

「配慮」

子どもに対する母の愛が例として挙げられます。子どもにご飯を食べさせたり、お風呂に入れたり、オムツを替えたり。愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることをいいます。

 

「責任」

責任というと義務的な物事を連想するかもしれませんが、本当の意味での責任とは完全に自発的な行為のことをいいます。責任があるということは、他者から何か求められたときその要求に応じられる、応じる用意があるという意味です。そして愛する人は、自分自身と同じように仲間にも責任を感じます。母子関係でいうと生理的要求への配慮を、大人同士の場合は相手の精神的な求めに応じることをいいます。

 

「尊重」

責任は尊重があってこそ成り立つもので、尊重がなければそれは支配や所有へと変貌します。尊重とは、人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことです。愛する人が、自分のためではなくその人自身のために、その人なりのやり方で成長していって欲しいと願う。そこに相手を利用しようとする意味は含まれていません。

自分が自立していなければ人を尊重することはできません。松葉杖の助けを借りずに自分の足で歩け、誰か他人を支配したり利用したりせずにすむようでなければ人を尊重することはできません。自由であって初めて人を尊重できます。

 

「知」

人を尊重するには、その人のことを知る必要があります。そうでなければ、配慮も責任も的外れに終わってしまうからです。そしてその知も、気遣いが動機でなければむなしいものになります。自分自身に対する関心を越え、相手の立場にたってその人を見ることができたときに初めてその人を知ることができるからです。相手は何が好き、とかそういう表面的なことではなくて、より相手の本質、核心にせまることを知というのですね。

 

これらの要素はすべて層状的層構造になっています。

 

そして、他人を知ることと愛の問題との間には他にもっと根本的な欲求が存在しています。孤独の牢獄を抜け出して他人と融合したいという基本的欲求は、「人間の秘密」を知りたいという欲求と密接に関わっています。自分の知らない自分を知ることがあるように、相手に対しても同様に知れば知るほど完全な理解からは遠ざかっていきます。それは、私たちは物ではないから。何年も一緒にいたのに知らなかった意外な一面を発見することってありますよね。だから人っておもしろいし、飽きることがない。終わりのない追求ですね。私たちは、そういった人間の一番奥にある芯に到達したいという欲求を捨てることができません。

 

秘密を知るための方法には二つあります。

一つは、他人を完全に力で抑え込む方法です。力で相手を支配し相手を自身の意のままに操作してしまう方法で、その極端な例がサディズムです。サディズムは人を苦しめたいという欲望であり、実際にそうする能力です。拷問による自白も、相手や自身の秘密を知りたいという動機がその根底にあります。

そしてもう一つは、愛です。これはただ考えて「知る」わけではなく、結合の体験、すなわち愛の行為によって知ることをいいます。この記事の冒頭で言及したように、サディズムにおいては愛について何も知ることはできません。自身と相手を完全に知ることのできる唯一の方法が愛の行為なのだそうです。これが答えなのかと正直驚きましたが、理解できなくはないと思いました。

 

本書は200ページ近くあるのですが、ここまででまだ50数ページです。先は長い。

でもこの活動をしている間は、孤独な自分という存在を忘れていられます。

 

次回は愛の行為についての説明から始まります。

 

「愛するということ」を読んだ後に、「自由からの逃走」にも私が求めている答えがあると感じたので注文し読み始めました。「愛するということ」よりも難解に感じますが、少しずつ読み進めていきたいと思います。

「愛するということ」 Part.1

「愛するということ」 Part.1

ここ数年、孤独感に悩んでいます。いや、もっと前から孤独感を感じていました。社会と繋がっていても孤独、繋がっていなくても孤独。

ここ数年の孤独感は深刻で、私はそれに耐えられなくなってきていました。何かで必死にごまかしたいと思いますが、その方法自体が見つからない。孤独の埋め方が分からない。

そんな時にとあるブログで薦められていたエーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んでみることにしました。といっても私は以前1度読んだことがあるのです。その時は今回読もうと思った動機とはまた別のものだったのですが、あまりパッとしなくて読後モヤモヤとした感じがありました。きっと即席の解決方法を求めていたのでしょう。基本的に電子書籍を購入することが多いのですが、この本は大事な本になる予感がしたので紙書籍を購入しました。

大事なところにラインをひこうかとも思ったけれど、読み直した時にその箇所が変わっていくかもしれないと思ってメモに残すことにしました。そしたら本の内容をほぼそのまま打ち込んでいるような状態に。

何度も読まないと自分の中に浸透していきそうにないと思ったけれど、少しずつ整理して書き出していこうと思います。自分なりの解釈なので、意味を取り違えているところもあるかもしれません。

 

「愛するということ」の原題は「The Art of Loving」です。愛の技術とも訳されていますが、私は「art」なのに技術と訳すの?芸術じゃなくて?と思っていました。

辞書を引くと、「技術, こつ, 要領; (芸術的)手腕, わざ, 技巧」と載っていました。語源はラテン語のars, artis(技術, 技能)からきているそう。一つ賢くなりました。

 

愛とは学ぶべきものである、という理解につながりにくい理由にはいくつかあるそうです。一つ目に、愛とはどのように愛するかではなく、いかに愛されるかを主眼としていること。二つ目に、愛するのにふさわしい相手を見つけることが難しいと思っていること。これは現代では自由恋愛に移行したことや、相手をパッケージ化された商品として認識し選んでいることが関係しています。そして三つ目に、恋に「落ちる」ことと、愛する人と一緒に生きていくという状態を混同していること。この三つを挙げていました。三つ目で言及されていたのは性的結びつきから2人の関係が深まることについてで、性的関係から始まるような急速に親しくなる関係は長続きしない。お互いに夢中になった状態を愛の強さの証拠だと思い込むけれど、それは2人がどれだけ孤独であったかを示唆しているにすぎないといっていました。

 

希望や期待を抱きながら始まるのに失敗に終わり、それを何度も繰り返す。でもそれを止めることができないもの。これなんだ?なぞなぞみたいですね。

 

答えはもちろん「愛」です。

 

であれば、生きることが技術であるのと同じように、愛も技術であることを認識し、学んでいかなければならないとフロムは提起しています。

ただし、他の分野でもそうだが、愛に関しても、その習練について語るべきことはわずかしない。

アルケミストでも同じことをいっていました。

 

人間は理性をもったことで動物から超越した存在になったけれど、これにより孤独や孤立を自覚します。全ての不安は孤立から生まれ、同じように恥、罪悪感も生まれる。

「完全な孤立という恐怖心を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ。」

この記述を読んで、ある種究極であり、現代のひきこもり問題にも通ずる本質だと思います。

 

古来から人は不安から生じる孤独感から逃れるための行動をとってきました。祝祭的興奮状態といわれる儀式的なものを行うことで一時的ではあるけれど高揚状態となり、それによって外界の存在が消失し孤立感も消えるのだそうです。儀式は共同で行われるので、集団との一体感がそこに加わりさらに効果的なものとなります。現代の日本においてもそれに近いものは各地に残っていると思いますが、日常的に取り入れられるものではないですね。

ですが、現代においても孤立感を克服する一番一般的な方法は、集団に同調することです。集団に同調することの効能は孤独から救われることですが、そのかわり個人の自我がほとんど消え、集団の一員になりきることが求められます。個人が埋没していくのですね。

 

私たちは均一化してきているのだそうです。

今と昔で「平等」の定義は変わってきています。昔は、一人一人が唯一無二の存在であり、個人と個人のちがいは尊重されるべきであり、人道的であったとしても人間が人間を利用することを否定していました。しかし現代社会においては、没個性的な平等こそが理想とされています。一人一人の違いはなくみんな同じ、同一の存在。なぜならその方が人を扱いやすいから。

みんな、自分は自分の欲求に従って行動している、だから人とは違うのだと思っているけれど、仕事も娯楽も型にはめられ、みんなそれに乗っかっていて差異はない。平等なのです。

当時と今とでは解釈が180度異なっていることに気がつき愕然としました。

 

アルケミスト」にも相手を尊重するという記述があったことを思い出しました。

人は誰でも、その人その人の学び方がある

彼のやり方は僕とは同じではなく、僕のやり方は、彼のやり方と同じではない。でも僕たちは二人とも、自分の運命を探求しているのだ。だからそのことで僕は彼を尊敬している

そして、私の好きな金子みすゞの詩「わたしと小鳥とすずと」でも

みんなちがってみんないい

といっています。

 

どちらの作品においても、異なる「個」の存在であることを前提に、差異を認め合うことを受容しています。

 

現代における平等は「一体」ではなく「同一」を意味していて、それが本当だとしたら、同一になってしまった先には何があるのでしょう?

 

フロムはこう言います。

型にはまった活動の網にとらわれた人間は、以下のことを忘れてしまうー自分が人間であること、唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスを与えられたこと、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること

辛いこともあるけれど、私はこれを忘れたくないと思いました。

 

集団への同調による一体感は、おだやかで惰性的。よく言えば持続的ではあるけれど、不安という緊張感を解放するには刺激が弱い。

集団への同調がうまくいっていない場合にアルコールや薬物、セックス依存症、自殺に至る場合があります。アルコールや薬物は精神的には効果的でも、肉体的にはあまり効果的でない。セックスは両面に作用し孤立感を克服する方法として間違いではないけれど、それしか孤立感を癒す方法を持たず、2人の間に愛がなければ孤立の不安感からは一時的に逃れることができても、逆に孤立感を深めてしまう。

 

創造的活動においても一体感を得ることができます。芸術や職人的なものであったり、創造する人間が素材と一体化する仕事をいいます。ただし自分で計画・生産し、自分の目で仕事の結果を見るような仕事でなければそうとは言えず、現代の労働者の仕組みにおける仕事においては対象との一体感が見られないと言っています。ただしこれは対物なので人間同士の一体感ではありません。

 

上記のように一体感を得る方法は様々ありますが、真に人間が求めているのは人間同士の一体化、他者との融合、それは「愛」に答えを求めることができます。

 

自分以外の人間と融合したいというこの欲望こそが、人間のもっとも強い欲望である。それはもっとも根源的な熱情であり、人類を、部族を、家族を、社会を結束させる力である。融合を達成できないと、正気を失うか、破滅する。自分が破滅する場合もあれば、他の人びとを破滅させる場合もある。この世に愛がなければ、人類は一日たりとも生き延びることはできない。

 

次回は愛の意味、定義についてまとめたいと思います。

「花束みたいな恋をした」-2人の世界

「花束みたいな恋をした」

ネタバレあります。

タイトルに惹かれてはいたけど見る機会がなく、ただYouTubeのコメント欄かどこかでエンディングについて言及されていたので結末だけは知っている映画でした。数年越しにようやく見ることができました。

 

冒頭から独特なセリフ回しだな、原作小説でもあるのかな、と思って見ていましたが、エンドロールで坂元裕二さんが脚本だと知り納得しました。以前「カルテット」と「大豆田とわ子と三人の元夫」を見たことがあります。どちらのドラマも数年前に見たので記憶が曖昧ですが、独特の視点とそこから導き出される考察が面白い脚本家だと思います。なぜか「カルテット」の唐揚げにレモンをかけるか否かというシーンが印象に残っています。あと松たか子さん演じる主人公と宮藤官九郎さん演じる失踪した夫のすれ違い。残酷ささえも感じました。一言言えたら良かったけれど、なぜかそれが言えない相手っているんですよね。でもそれが言えないのは相手が悪いんじゃなくて、自分に原因があります。相手のせいにできたから失踪するという行動をとれたのだと思います。

話を戻します。こんなに好きな物が同じで、世代感覚が近くてもうまくいかないことってあるんだなと思いました。趣味嗜好は似ていても、その他の価値観が違ったのかな。今エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読み終わって2周目に入ったところなのですが、2人とも愛の習練が出来ていなかったからなのかなと思ったり。私も愛についての学びと技術の獲得が全くといっていいほどできていないので偉そうなことは言えませんが。

お互い学生なのに同棲するため新しい部屋を借りるところが衝撃で、ふわふわしてる、浮世離れしているという感覚を受けました。大学卒業後もフリーターとして2人の生活を続けていきますが、親からの月5万の仕送りが絶たれた辺りから物語が動いていきました。絹は資格をとり就職、麦もイラストレーターとして生活する夢を諦め就職し、多忙を極めていく。2人の生活はすれ違い、麦は読みたかった本も読めなくなります。(物理的な原因ももちろんあると思いますが、それって鬱傾向もあるのでは?と感じました)2人が一緒に居続けるために選んだことのはずなのに、うまくいかないもどかしさ。資本主義社会に翻弄されていく2人。

麦は絹の仕事に対する価値観を否定的に見ていましたが、それは嫉妬もあったのだろうと思います。私は絹の考え方が好きだし、実際にそういう価値観だと思います。仕事だからといってなんでも割り切れるわけじゃない。

途中のシーンで「茄子の輝き」という本が出てくるのですが、そんなタイトルの本あるの?と思って調べたら実際にあって驚きました。現代小説やサブカルなどに詳しくないので彼らの会話の中に出てくる人物やグループ名は全て架空だと思っていたのですが、実在しているんですね。最後の最後に出てきた「羊文学」と「崎山蒼志」だけはわかりました。もちろん呪術廻戦つながりで!

お互い「別れよう」って言わなくても、なんとなく肌感覚で終わりを感じている2人。とってもよくわかります。

麦は、恋愛感情がなくなっても家族でいたらいいじゃないかと自分自身も納得させるかのように伝え、絹の説得を試みます。恋愛感情が~と言われた時、絹は一瞬傷ついた表情をしたように見えました。でもその言葉をきっかけに別れない方向に進み始めていって「え。別れないの?」と思いましたが、知り合った頃の自分たちを彷彿とさせるような学生2人の様子と会話を聞いて、別れを決断します。あの頃の2人だったからこそ好きになったけれど、もうあの頃の2人には戻れない。この状態でずっと一緒にいても幸せでないことは分かっていたのに気付かないふりをして、でも学生2人を通して見た過去の2人を前にそのふりを続けることができなくなった感じに見えました。学生2人の姿を見ていますが、特に後半、実際には自分たちの過去の姿を見ていましたね。

彼らの4年間はわりかし穏やかな時間が多かったように思います。だからもしお互いが既に社会人となり自立した状態で知り合っていたら、違う結末があったのかなと思います。冒頭のシーンで同じ行動をとっていた2人。やっぱり似ているんだもん。

彼らの歩みの中に自分の過去を見ているようでもありました。たまにはこういう恋愛映画を見るのも悪くないなと思いました。

ILLIT Magnetic - You must be a magnetic person.

ILLITの「Magnetic」にどハマりしてエンドレスリピートで聴いています。

magneticには、「磁石の、磁気の、磁気を帯びた」という意味の他に、「人を引きつける、 魅力的な」という意味もあるそうです。「Magnetic」でもダブルミーニングで使っているのでしょう。

インスタのリールで耳にしたのですが、まずキャッチーなサビに惹かれました。フルで1回聴いた時はあまりピンと来ず、音楽が途中で止まったりする独特のリズムに戸惑ったのですが、何回か聴いていくうちに「いい!」となりました。今では途中で止まるところで私も無駄に止まります笑 ヴォーカルは甘い声の中にちょっとハスキーで切ない感じがあり、後ろでキラキラしているサウンドが女の子のふわふわしたかわいらしい世界観を表していますね。音楽に全然詳しくないので表現が稚拙すぎる!とにかくエンドレスに流していても気にならず、ずっと聴いていられます。PVも可愛いです。そしてみんなお髪が豊かでうらやましい。。

そんな「Magnetic」ですが、1つ気になることがあります。好きな人に強く惹かれる女の子の気持ちを歌っているから、その想い人はきっととても魅力的な人なんでしょう。でも歌詞を見るにつけ、女の子にはもっと他にふさわしい人がいるんじゃないかな?と思ってしまいます。というのも女の子の決意表明はありますが、相手の反応が描かれていないからです。歌詞に出てくる女の子の行く末が勝手に心配になっております。最近JUNG KOOKの「Seven」もよく聴いていたのですが、「Seven」と「Magnetic」の主人公の相性が良さそうだな〜と勝手に思っています。お互い一途に想いあいそうだなって。完全に私の妄想の世界ですが!

他にインスタリールから知って気に入った曲にEldonの「Stupid」と「Pink cheeks」があります。こちらも韓国の歌手ですね。

Spotifyに登録していた時は知らない音楽に出会う機会に恵まれていたのですが、解約した今では時々見るインスタリールがその代わりになっています。流行に疎いのですが、ごくたまにリアルタイムで流行に乗れた時は嬉しいです。一体感が得られるからでしょうか。

今日はエーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んでいます。「一体感」という言葉はここにも出てきます。ですがここで私が使った「一体感」は恐らく望ましくないもので、フロムが理想とするのは全く違った意味合いだと思います。読み終えたらこちらもまた記録に残す予定です。

「アルケミスト 夢を旅した少年」- 私は私を思い出す

アルケミスト 夢を旅した少年」読了。

 

サンチャゴという1人の羊飼いの少年のお話。

前半は自分とサンチャゴを重ね合わせるようにして読んでいました。

サンチャゴの気持ちがとてもわかる。私がここにいる!と思って泣きたくなりました。

ページ数は多くないのですが一度に読み切るのが勿体無い気がして、少しずつ4日かけて読みました。

「これは重要な本だ。でも本当にイライラする本だな」「この本は、世界中のほとんどの本に書かれていることと同じことを言っている」「人は自分の運命を選ぶことができない、と言っているのだよ。そして誰もが世界最大のうそを信じている、と言っている」
「それはこうじゃ、人は人生のある時点で、自分に起こってくることをコントロールできなくなり、宿命によって人生を支配されてしまうということだ。それが世界最大のうそじゃよ」

歳を重ねていくと不思議なことに、これは自分が本当にしたかったことではないのではないかと疑い、何かを諦めようとすることがあります。初めの目標をすっかり忘れて、違うことが真の目的かのようにすげ変わってしまうこともあります。

心当たり大あり。

それは失敗して傷つく恐怖に負けた結果でもあり、また自分の心の声を無視した結果でもあります。そして不意の反逆に遭う。

「誰でも若い時は自分の運命を知っているものなのだ。まだ若い頃は、すべてがはっきりしていて、すべてが可能だ。夢を見ることも、自分の人生に起こってほしいすべてのことにあこがれることも、恐れない。ところが、時がたつうちに、不思議な力が、自分の運命を実現することは不可能だと、彼らに思い込ませ始めるのだ」

将来に悩む若い子に、「あなたには無限の可能性がある」と伝えたことがあります。すると彼女は「だから迷っているのだ」と返しました。自分の可能性を理解している彼女は聡明だと思います。彼女が可能性から夢を掴み取り、実現していたらいいなと思います。

 

アルケミストでは「前兆」「大いなる魂」という言葉がたくさん出てきます。これらの言葉は後半に進むにしたがって増えていきます。

「前兆」は常に至る所にあるということ。

「大いなる魂」は自分の心が知っている、つまり答えはすでに自分の中にあるから、自分の心の声に耳を傾け続けることが大事だと言っています。そのためには行動すること、それとやる気と勇気が必要だと。

サンチャゴが旅をする中で、サンチャゴの父親、タリファのパン屋、クリスタル商人、イギリス人など複数の登場人物と出会います。彼らは自分の運命の実現を諦めた人間として描かれています。

サンチャゴをお店に雇い入れたことでクリスタル商人の商売は上向きになりますが、逆に自分が不幸になっていくと言います。彼はサンチャゴと出会う前から「今となっては、何かを変えようとしても、もう遅すぎた」と思っていました。人生が転換してからもその思い込みは強固で、戸惑いを感じながらも現状を変える気がなく今のままがいいと思っています。

でもイギリス人は彼とはまた違う答えを出します。失敗を恐れていたことに気づき、鉛を金に変えるために硫黄の分解を始めます。10年前に始められたことを今やり始めたけど、20年も待たなかっただけ幸せだと言いました。

中盤から、サンチャゴと私は全く違うことを自覚しました。私は本当に欲しい未来に目を向けず、心の声を無視して逃げ続けたからです。

彼が夢の実現に向けて近づけば近づくほど、物事がよけいに困難になってきていた。年老いた王様が「初心者の幸運」と呼んでいたものは、もはや働かなくなっているようだった。夢の追求の過程で、彼はやる気と勇気を常にテストされていた。「すべての探求は初心者のつきで始まる。そして、すべての探求は、勝者が厳しくテストされることによって終るのだ」

やり始めた時は追い風があるけれど、その後は当たり前ですが、努力が必要なんですね。でもサンチャゴには錬金術師がいたように、決して一人きりではないと思います。

「傷つくのを恐れることは、実際に傷つくよりもつらいものだー夢を追求している時は、心は決して傷つかない」「学ぶ方法は一つしかない」「それは行動を通してだ」

私が個人的に気に入っている一文です↓

錬金術師が鉛から金を生成したとき、サンチャゴは彼に「私もいつか、この術を習えますか?」と尋ねます。すると錬金術師は「これはわしの運命だ。お前の運命ではない」と答えます。

誰かを羨むことってあると思います。

でもそれは私じゃない。私がすべきことは別にちゃんと用意されている。

自分の運命を実現することは、人間の唯一の責任なのだ。

自分の運命ってなんだろう。アルケミストを読み進めていくうちに、遠くに置いてきて忘れてしまっていた自分を思い出してきました。

「結局、人は自分の運命より、他人が羊飼いやパン屋をどう思うかという方が、もっと大切になってしまうのだ」

「僕は他の人と同じなんだ。本当に起こっていることではなく、自分が見たいように世の中を見ていたのだ」

「おまえが自分の内にすばらしい宝物を持っていて、そのことを他の人に話したとしても、めったに信じてもらえないものなのだよ」

他の者の運命をじゃまする者は、自分の運命を決して発見しはしない

自分がどうしたいかは結局自分で決めなければならない。自分の人生は自分で舵を取らなければならない。誰も責任なんてとってくれない。それなら自分がやりたいことを精一杯やるのが良いと思います。失敗したらまたやり直したらいいんです。失敗するくらいならしなければ良かったと思うこともあるかもしれないけれど、1つの立派な経験でもあります。日本は失敗した人に厳しいですが、時代は少しずつ変わってきていると感じます。そして生きていくためのセーフティネットはそこにアクセスできればある程度機能していると思います。自分が自分でいることを諦めない限り大丈夫。そのためには心の声を聞き続けることが大事。底までたどり着いたらあとは浮上していくだけです。

 

サンチャゴは無事ピラミッドに辿り着くのか、夢で見たものを手に入れることができるのか、ファティマとの結末はどうなるのか。

人生に行き詰まった時、自分らしさって何だろうと「私は私を思い出す」

サンチャゴの旅を通じて本来の自分を取り戻すきっかけになる一冊だと思います。

あとがきに作者のパウロ・コエーリョの略歴が説明されていましたが、面白い人生を歩んでいました。サンチャゴには作者自身が投影されているのかもしれません。

 

読んで良かったです。

気になられた方は是非読んでみてください。

転職活動と自己分析 -ホロスコープのすすめ

お久しぶりです。

気がついたら半年以上経っていました。

はてなブログの「記事を書く」ページも何だかバージョンアップしている!

もう何ヶ月前の話って感じですが、毎週楽しみにしていた呪術廻戦のアニメ2期が終了してしまいました。ファミマコラボの食べ物を買ったり、ファミマプリントで爆誕五条先生をプリントアウトしたり、呪術廻戦カフェに行ったり、呪術廻戦マンチョコを買ったり、細々と楽しんでいました。コミックスの方はというと五条先生に関する内容が受け入れられず続きを読めていません。今は呪術廻戦と少し距離を感じていますが、カーナビや電車地下鉄、ニュースなどで「ゴジョウ」と聞くと耳が勝手に反応してしまいます。自分の気持ちがもう少し落ち着いて準備ができたら続きを読もうと思います。アニメ3期楽しみです。いつ放送するんだろうか!

そして今は転職活動に向けた自己分析と意識改革をやっております。

自己分析をやり始めた時は転職サイトで出来る無料診断を使ったり、クリフトンストレングス(ストレングスファインダー)で自分の強みを出したりしていましたが、今はホロスコープに再度ハマっています。

クリフトンストレングス、私は本(2,420円)についているアクセスコードを使って診断しました。34個の強みのうち、上位5つを弾き出してくれます。転職セミナーで初めてクリフトンストレングスの存在を知ったのですが、講師の話を聞いて自分の強みを予測してみるという時間が設けられていたので5つ挙げてみたところ、自分の予測と実際の分析結果は60%合致していました。つまり5個のうち3個は予測が当たっていました。自分の実感と客観的な結果にそこまで大きなずれは無かったので少し安心したのと、強みを再認識することが出来ました。しかしこの結果をもってさあどうする?となった時に、うまく言えないけれど私が知りたい情報はこれとはちょっと違うような気がしました。追加料金を支払えば34個全ての自分の強み資質の順位を知ることが出来ますが、地味に高いし使いこなす自信がないのでそこまでしなくていいという判断をしました。新卒でこれから就活しようと考えている方や20代前半の方など、これまでの経験と客観的事実を擦り合わせる時にトップ5だけでも強み資質の確認をしてみるのは良いのではないかと思います。あと会社が費用を負担して受けさせてくれる機会があったら利用してみるとか。私はもう一歩踏み込んだ結果を知りたいと思い、どういうわけかホロスコープに興味が移行していきました。

ホロスコープは以前もハマって生年月日と出生時間と出生地を入力し色々調べていたことがあるのですが、ハウスとかアスペクトとか色々難しくて挫折した経験があります。これまでに2度ホロスコープを見ていただいたことがあるので、そこで聞いた話をベースに色々なブログ記事やYou Tubeを読んだり聞いたり、松村潔先生の松村潔ストアでサビアンについて説明してくれる音源を購入して聞いたりしながら自分なりに理解を深めているところです。松村潔ストア、コンスタントに新作情報がメールで流れてくるのでついページを開いてしまいます。恐るべし松村潔ストア。既に愛蔵版サビア占星術が1冊買えるくらいの音源を購入したので本を買ったほうが良かったかもと思いましたが、そしたら私は自分のサビアンしか見ないだろうし、それに対して音源は同じ度数の他の星座の話や度数自体が持つ性質なども体系的に教えてくれます。1パッケージで1星座5度数の説明が聞けて、1時間少しのボリュームがあるのでじっくり講義を聞く感じでサビア占星術自体に対する理解が進んだ気がします。(まだまだペーペーですが。)耳から入ってくるので読むより負担が少ないのも良いです。いずれは愛蔵版サビア占星術も購入したい。

ホロスコープ、本当にすごいです。これまで自分がなんとなく自分に対して思っていたことや、人から持たれる印象など、全ては星が教えてくれます。胡散臭く聞こえるかもしれないですが、ホロスコープで説明可能なんです。自己分析で行き詰まっている方、母子手帳で出生地と出生時間を確認して「ホロスコープ 無料」で検索をかけて調べてみて下さい!サビアンは小数点以下は見ずに+1度で出すことが出来ます。11.2度だったら11+1度の12度があなたのサビアンです。色々な方がサビアンについて説明を書いてくれているので、読み比べるのも面白いです。自分の適職も分かります。私に向いているかもな〜と思う仕事を松村先生の音源でズバリ言い当てられたので驚いてしまいました。私はMCと月が乙女座なのですが、乙女座の中でも⚪︎度から3度くらいまでは△△という仕事が適職、みたいな説明がされていました。

最近「アルケミスト」という本を読み終えました。本当はこれについて書きたかったのですが、今回はここまで辿り着けず。アウトプットすることで思考も整理されるし、年々人に伝えたい欲求が高まってきているので次回これについて書いてみようと思います。ホロスコープ熱が湧いてきてしまい、本来の目的を忘れるんじゃないかと自分で自分が心配になったりもしますが、履歴書もぼちぼち書いて準備を進めています。

失恋を受け入れるきっかけとなったキー曲

今日は呪術廻戦から離れて・・・タイトルの通りおすすめの曲を挙げたいと思います。

1.「トゲめくスピカ」ポルカドットスティングレイ

NHKみんなのうたで放送されて知った曲です。

もうお別れが近いことに気づいていながら、それがなかなか受け入れられずにいた時に刺さりました。

2.「Pretender」Official髭男dism

言わずと知れた名曲ですね。明るい♩グッバイが悲しいけれど前を向いて進んでいこうと決意させてくれました。

3.「恋の中」マカロニえんぴつ

心が通じ合っていない感じがして帰り際、不機嫌になる私。歌詞は片想いの内容な感じですが、私も付き合っていながらだんだん温度差がはっきりしてきて片想いと何ら変わらないとさえ思い始めていたので、この曲はそんな悲しいデート帰りにとぼとぼ歩きながら聞くと、隣ではっとりさんが「うんうん分かるよ」と言いながら一緒に歩いてくれている感じがしないでもない曲です。

4.「恋人ごっこ」マカロニえんぴつ

タイトルを見てまず胸がズキンと痛みました。歌詞は悲しく切ないのに、メロディーは明るくて軽く困惑・混乱しました。だいぶ吹っ切れた時期に聞きましたがショックで1度聞かなかったことにしようとしたので、失恋したての頃には聞かない方がいいかも知れません。

 

その時の恋愛事情によって響く曲って変わりますよね。

当時の私はあまり良い恋愛をしていなかったので、二人の温度差や片想いを歌った曲が響いたようです。同じような恋愛事情の方の助けになれば幸いです。

 

今日は短いですがそんな感じです!

でも実はこれはずっと書きたいと思っていた記事No.1です。

呪術廻戦リアタイしたいなぁ。(結局そこで終わる。。)